ブラジル日本文化福祉協会

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歴代会長

サンパウロ市創立400年記念祭への協力を機に、1954年初頭 日系社会の結合・団結を図る組織設立の提案がされました。それまで、第二次世界大戦の敵国として対日規制は厳しく、ブラジル日系社会は戦中・戦後と続いた苦悩の日々を語り合う場所も組織はありませんでした。

1955年10月 サンパウロ市創立400年祭典協力委員会解散総会が開かれ、同時にサンパウロ日本協会創立準備委員会が発足しました。1955年12月17日には、サンパウロ日本文化協会が創立され、初代会長に山本喜誉司が選出され、事務所をリベルダージ90番、6階に設けました。

山本会長の激務の始まりです。一方では、資金援助を受けるために、もう一方では、ブラジル日本移民50年祭に向けて実行委員会を組織するために、勢力的にPR活動を展開しました。(この祭典は、戦後の混乱期を経て、やっと日系社会がまとまりを見せ始めた象徴的な祭典でした)

更に50年の月日が流れ、歴代11人の会長が日系社会の中心機関としての責務を果たしました。それぞれの方にとっては(本業を持ちながらも)、日系社会の団結、少なくても組織の結束のための多大な献身と努力の日々を意味していました。

2013年5月現在、ブラジル日本文化福祉協会と改称し、2009年4月に選出された第11代会長 木多喜八郎が3期目を勤めています。

歴代会長の横顔と業績は以下の通り

第9代会長 岩崎秀雄 1999年4月~2003年3月

岩崎秀雄1922年3月1日、東京で生まれる。1935年、家族と共にサンパウロ州リベイロン プレットに入植、次にリオパルド デ サンタクルスで働きました。

1937年に家族とサンパウロに移転、1940年、日本の総領事館で働き始めて、間もなく、第二次世界大戦の勃発のために閉鎖されました。

1945年から26年間ジュケリー農業組合(後の南ブラジル農産組合中央会)で働き、1971年、常任理事の時に辞職しました。1977年、三井肥料株式会社に営業取締役として就任し、1985年の退職まで、多忙な日々を過ごしました。

1981年から1993年、サンパウロ日伯援護協会で重要な職務に携わりました。他にもブラジルゲートボール連盟副社長、1995にはブラジル東京都友会会長も務めました。

1999年、日系社会は移民史上最も難しい舵取を求められた時期に、ブラジル日本文化福祉協会の会長に就任、平成10周年の記念事業にブラジル日系社会の代表として訪日しました。2000年には、懸案事項の戦後に焦点を当てた増床展示室の建設が、ブラジル日本移民史料館9階の戦後50年史常設展として落成式を迎えました。2003年、勲四等旭日小綬章を受章しました。

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第8代会長 山内淳 1991年4月~1999年3月

山内淳1931年9月20日、サンパウロ州アラサツーバ市で生まれる。1959年、マッケンジ大学工学部電気科と土木科を卒業し、1984年に会計科を卒業しました。

1960年から1966年まで、日立製作所に勤務し、1973年、日本の協和電設と合弁でボビエル・キョウワ株式会社を設立。1990年まで社長に就任しました。

1957年の大学在学中から柔道スポーツ連盟とブラジル日本文化協会(文恊)に積極的に関与しました。文恊では長年にわたり委員や理事として活動し、1991年、二世で初めて会長に就任しました。

1991年から、日系社会、ブラジル社会、日本との交流を対象とした活動を3本柱として確立すべく、文恊の活動を見直す必要性を強調し,日系団体代表者会議を始め、 1995年、JICAの委託事業から文恊独自の事業となりました。また、1996年から全伯日系青年リーダー会議が毎年開催されるようになりました。

任期中、出稼ぎ現象に関するシンポジウムは、大きな反響を呼び、二世、三世の日系社会離れや、出稼ぎ現象で空洞化する「日系社会の未来を考える」シンポジウムの開催に繋がりました。また、文恊内に初級日本語講座を開設し、1996年、橋本龍太郎総理の来伯時に、日伯学園の建設支援を日本政府に要請、見事に建設の運びとなりました。2003年、勲四等瑞宝章を受章しました。

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第7代会長 尾身倍一 1983年3月~1991年3月

尾身倍一1921年7月5日、東京で生まれる。1932年にブラジルに来伯、1949年まで、農業に従事し、その後スブルバーナ産業組合に就職しました。1953年、尾身兄弟商会を設立して、事業家としての道を踏み出しました。

1967年、サウージ文化体育協会を設立、1978年には、こどもの園(身体障害児療養施設)の理事長に就任、1969年以来、ブラジル日本文化福祉協会(文恊)の理事を歴任し、常に日系社会の活動に携わって来ました。

1983年に文恊の会長に就任、全伯の日系団体との連携を強化するため、全伯日系団体代表者会議の開催を提議し、1984年に室内体育館と駐車場を含む別館、小講堂、図書館、展示室を建設するため委員会を結成しました。

日本とブラジル日系企業の財政支援のおかげで、1987年には、室内体育館、1988年には別館と駐車場など、すべての施設が完成しました。

特に、1988年のブラジル日本移民80年祭では、祭典委員長としての重責を果たしました。1993年、日本政府より勲四等瑞宝章を受章しました。

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第6代会長 相場真一 1979年4月~1983年2月

相場真一1908年2月17日、北海道で生まれる。1930年、家族と共に農業移住し、アリアンサ移住地(現在サンパウロ州北西部)の富山移民組合で2年間働きました。

1933年、サンパウロに出て、1934年に創立間もないブラジル拓殖組合(ブラ拓)の宮坂専務理事の誘いで就職、1938年にはサンパウロ本部経理部長に就任しました。

1947年から南米銀行の再建に献身し、南米銀行グループ経営審議会会長、南米安田保険(株)社長を歴任しました。

在任中、ブラジル日本文化協会(文恊)が日系社会の中心的機関でありながら、会員数が少なすぎるとして、全伯の日系文化団体の会員加入促進運動を展開しました。その結果、任期中に会員数は目標の5000人に達し、文恊の財政再建に大きく寄与しました。

また、スポーツを通じて、二世や三世が文恊活動を再認識でき、かつ優秀な後継者の育成ができるとの信念から、総合スポーツセンター建設計画に、熱心に取り組みました。

この時期、スポーツセンター建設資金として、会長自身の所有地10万平方メートルを寄贈しました。スポーツセンター建設計画を発表するに当たり、「日系社会は常時なさなければねらない大事業を持つべきだ」と日系社会活性化論を力説しましたが、最悪なブラジル経済の状況下にあって、その建設計画を着工することはできませんでした。1986年、勲三等瑞宝章を受章しました。

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第5代会長 中沢源一郎 1975年4月~1979年3月

中沢源一郎1907年5月23日、高知県で生まれる。東京大学文学部教育学科を卒業して3年後、1933年に来伯しました。

1934年から1939年まで、サンパウロ州ジュケリ(現在マイリポラン)で農業に従事、乞われて日本語学校の教師を半日務めました。1939年、ジュケリ農産組合(1954年から南ブラジル農業協同組合中央会と改称)の専務理事に就任し、1973年まで在任、以後1984年に永眠するまで、理事長の要職にあたりました。

1954年、サンパウロ市創立400年祭協力委員会とサンパウロ日本文化協会(文恊)創立準備委員会の活動に参加しました。

1961年の創業以来、1975年にサンパウロ日本文化福祉協会の第5代会長に就任するまで、日本移民援護協会(後のサンパウロ日伯援護協会)の会長として、運営の中心で日系社会の福祉事業の基礎作りに粉骨砕身しました。

特筆すべきは4年間の在任中に、ブラジル日本移民70年祭典、ブラジル日本移民史料館の建設、文恊ビル4階?8階の増築と言う大事業を完遂したことでしょう。1979年勲三等旭日章を受章しました。

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