ジャパンハウス『隈研吾-エターナル・エフェメラル』展 - ブラジル日本文化福祉協会
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ジャパンハウス『隈研吾-エターナル・エフェメラル』展

Na abertura de sua exposição Eterno Efêmero, no Japan House, o Arquiteto Kengo Kuma entrega ensaio sobre o Pavilhão Japonês à presidente do Bunkyo, Harumi Goya (Foto: Bruno Poletti / JAPAN HOUSE São Paulo)去る7月17日、ジャパンハウスサンパウロにて建築家である隈研吾氏の展覧会『隈研吾-エターナル・エフェメラル』の開会式が行われました。

その際、呉屋春美文協会長へ文協が管理しているイビラプエラ公園内にあります、サンパウロ日本館(1954年堀口捨巳氏建築)に関するエッセイをいただきました。

エッセイの内容は下記リンクからご覧いただけます。(日本語版・ポルトガル語版)

2015年、隈氏がサンパウロ日本館を訪れた際、同館は1988年より修復工事に携わっている中島工務店による4度目の改修工事中でした。岐阜県中津川市に本社がある中島工務店は、日本のお城、お宮、茶屋などの木材建築はじめ、鉄やコンクリートをも用いて幅広く仕事をこなす工務店です。中島紀于社長と6人の職人たちは修復のために来伯し、使用された木材も日本から取り寄せました。1988年の修復工事から、全4回に及ぶ工事はすべて中島氏のご好意により実現し、修復に使用される材木もすべて提供していただきました。

Kazuo Watanabe, Hitomi Sekiguchi, Kengo Kuma, Harumi Arashiro Goya e Angela Hirata (Foto: Bruno Poletti / JAPAN HOUSE São Paulo)このサンパウロ日本館への訪問は木造建築を専門とする隈氏にアルミの外観を予定していたジャパンハウスの設計図を考え直させる出来事となりました。また、今年5月6日、パウリスタ大通りに開館した同施設の建設を中島工務店に依頼するきっかけともなりました。

Na Av. Paulista, a fachada do Japan House se destaca na paisagem urbana (Foto: Divulgação / JAPAN HOUSE São Paulo)伝統を残しつつ、現代の日本を表現するジャパンハウスの外観は、20世紀を代表するモダニズム・木造建築家である堀口捨巳氏が建築した日本館との特別なつながりによって永遠に記憶にとどめられることとなりました。

呉屋春美文協会長は、エッセイを受け取った際のお礼の挨拶で、「堀口先生と隈先生のみが日本建築家として、ブラジルの大地に作品があり、両方とも木造であることはたいへん喜ばしいことです。隈先生がデザインされたジャパンハウスとの特別なコネクションをきっかけに、日本館に新たな来場者を引き寄せることになりまして、日本の建築意匠が広く知られるようになってきております。
来年の日本移民110周年記念祭典とともに、これから更なる日伯交流の発展につながることを願っています。」と話しました。

プロフィール
隈研吾(くま・けんご)
1954年横浜生まれ。東京大学大学院工学部建築学科修了。コロンビア大学客員研究員を経て、2001年より慶應義塾大学教授。2009年より東京大学教授。
1997年「森舞台/登米町伝統芸能伝承館」で日本建築学会賞受賞、同年「水/ガラス」でアメリカ建築家協会ベネディクタス賞受賞。2002年「那珂川町馬頭広重美術館」をはじめとする木の建築でフィンランドよりスピリット・オブ・ネイチャー 国際木の建築賞受賞。2010年「根津美術館」で毎日芸術賞受賞。

『隈研吾-エターナル・エフェメラル』展
会期  2017.7.18-2017.9.10
火曜日~土曜日  10h~22h
日曜日・祝日:  10h~18h
入場無料
http://www.japanhouse.jp/saopaulo/event/kengokumaexposicao_00001.html

日本館についての情報は下記リンクからご覧ください
http://www.bunkyo.org.br/pt-BR/pavilhao-japones

以下、日本館についての隈研吾氏によるエッセイです。

サンパウロ日本館

1954年の1月から1年間、ブラジルのサンパウロ市で、サンパウロ市制400年記念の万国博覧会が開かれた。会場計画の中心人物は、すでにモダニズムの鬼才として、世界に名を知られていたブラジル建築界のエース、オスカー・ニーマイヤー(1907-2012)であり、彼の力強い造型が、180万㎡のイビラブエラ公園全体で、華々しく展開した。

一方、日本館を任されたのは、和風建築の巨匠、堀口捨巳(1895~1984)であった。片やコンクリートの彫刻家、片や繊細な木造。これほど極端に対照的な組み合わせは考えられない。そして、できあがった日本館も、いかにも堀口らしい繊細な木造建築であった。堀口の設計した建築群の中でも、最も繊細なものと呼んでいい。桂離宮にヒントを得たと思われる、細い木の柱で建築を支える手法は、すばらしい完成度に達し、インテリアでも細い材料が繊細な音楽を奏でている。自由でマッシブな形態、強烈な色彩のニーマイヤーのコンクリート建築とは、すべての点で対極的であった。意図的であるとしか思えない対比が、そこには存在している。

当然堀口はニューマイヤーの会場計画を見せられていた。ニューマイヤーがどういう人物、どのような作風であるかも知っていた。堀口は何を考えながら、どのようにして、この日本館のデザインにたどりついたのだろうか。なぜここまで対極に振らなければならなかったのだろうか。

まず考えなければならないのは、日本のモダニズム建築とは、そもそも何だったのかという問題である。日本のモダニズム建築は、カタストロフと、深い関係をとり結んでいる。関東大震災と、第二次大戦という2つの悲劇(カタストロフ)による都市の消失を経て、日本はそれまでの「木の都市」を捨てて、「コンクリートの都市」を獲得した。それを、国家目標と決め、コンクリート化は日本の建設産業をうるおし、戦後日本の発展の経済的なベースとなった。20世紀初頭の西欧に登場した、コンクリートと鉄でできた機能主義建築、すなわちモダニズム建築が、コンクリート化した日本の都市の「制服」となった。コンクリート化という国家目標を達成することに、官民一体となって走ったのが、20世紀の日本建築史であったわけである。

その大きな流れの中で、堀口という建築家は奇妙なポジションにいた。一言でいえば、堀口は早すぎたのである。あまりに早熟だったのである。彼は1920年、東京大学建築学科在学時に、分離派建築会というグループを同級生6名で立ち上げ、7月には白木屋デパートで、「第一回日本分離派建築会展覧会」を開催し、岩波書店からも「分離派建築会宣言と作品」を出版。

1920年という日付にこそ注目すべきである。関東大震災は1923年9月であった。分離派建築会は、19世紀末に発するウィーン分離派にちなんだ命名で、日本で初のモダニズム建築の運動であった。東大の学生が、突然にして、日本の建築会の渦の中心となり、若きスーパースターが誕生したのである。もちろん、日本のモダニズム建築ととれる前川國男(1905-1986)よりも、丹下健三(1913-2005)よりも、ずっとずっと早いスタートであった

そして最も注意すべきことは、堀口が関東大震災よりも早かったという事実である。関東大震災というカタストロフの後、日本の建築界は、木造の否定、都市のコンクリート化へと一直線に走った。最先端デザインであった西欧のモダニズム建築の導入と、大震災の教訓としての反木造とが、ぴったりと併走して、20世紀の日本建築のメインストリームとなった。モダニズムと大震災の同時性という時間的偶然が、その後の日本建築の流れを決めた。建築の流れを決定しただけではなく、日本社会の方向性をセットした。大震災があったからこそ、こんなにも早く、都市のコンクリート化が実現し、土建国家の方向に、国が一気に走り始めたのである。丹下、前川は、その潮流のトップランナーとなって、新しい時代を走り抜けたのである。

一方、堀口は、関東大震災のという笛の鳴る直前に、フライングしてしまったのである。単に分離派宣言(1920)を出しただけではなく、その宣言の延長線上に紫烟荘(1926)という不思議な木造住宅を設計し、発表してしまったのである。紫烟荘は、関東大震災後にメインストリームとなるコンクリートのモダニズムとは、明らかに異質であった。まずコンクリート造ではなく、木造であったし、フラットルーフではなく、茅葺の勾配屋根がのっていた。田園風のとてつもなく「しぶい」ものだった。

1910年代から20年代にかけて、ヨーロッパ建築界をにぎわしたアムステルダム派のデザインから堀口が影響を受けたことは明らかであった。アムステルダム派は大きな意味ではモダニズム建築の一派とくくることができるが、1930年代以降にモダニズムの主流となる、コンクリートボックスのデザインとは、対極であった。コルビュジエやミース・ファンデルローエがリードしたコンクリートボックスのモダニズムは、大量生産、大量消費を基本コンセプトとする工業化社会のニーズに答える優等生的デザインであったが、アムステルダムは、むしろ工業化社会の合理性を批判しているかのように見える。堀口がフライングだとしたら、アムステルダム派もフライングかもしれない。あるいはあえて、水のない地面の上に飛び込んだのかもしれない。

堀口は早熟であり、繊細であり、プライドも高かったのであろう。そのためにフライングし、さらにそのまま宙吊りになってしまったのである。そして堀口という建築家の一番のすごさは、それではコンクリートへと転向しなかったことである。彼はフライングで選んでしまった木造と添い遂げた。そのために、日本の伝統建築を、その後徹底的に学習した。伝統という助けを借りなければ、木造という一種の「過去の遺物」をもってコンクリートという時代の大潮流に立ち向かうことはとうてい無理であると、堀口は察知したのである。その意味で堀口の人生は悲劇であり、喜劇であったかもしれないが、充分に賢明でもあった。

その宙吊りの堀口が、よりによってコンクリートモダニズムのトップランナーであるオスカー・ニーマイヤーのデザインする博覧会の中に日本館を設計することになるとは、なんという時代のめぐりあわせだろうか。そして、これ以上の悲劇/喜劇がありえるだろうか。

堀口が、サンパウロの地で、いかに悩んだかは想像に難くない。この逆説的状況にどう対処すべきか。仕事を受けるべきか受けざるべきか。堀口はこう記している。「私はニーマイヤーのあの烈しい表現を伴った傍らに、自分の設計を試みる勇気を全く欠いていた。(中略)それから半月ほど私は柄にないこの仕事を如何にして断るべきかを考え続けた。」

しかし結局、堀口はサンパウロの仕事を受けた。しかも、『時代遅れ』の木造をもって、ドン・キホーテのごとき構えで、ニーマイヤーにいどんだ。サンパウロの日本館を一言でいえば、20世紀のドン・キホーテということになるだろう。それは喜劇である以上に英雄的であり、それゆえに人を打つ。

ドン・キホーテは、いかにしてコンクリートに闘いを挑んだか。20世紀のドン・キホーテはしばしば、庭を武器とすることを選んだ。和風の庭と抽象的なモダニズムの庭とを、レベル差を用いてセパレートするという巧みな操作によって、堀口は知られる。彼は繊細な木の建築を、庭という囲いを用いてまもったのである。堀口の代表作と呼ばれる岡田邸(1933)は、隔離された和の上に建つ木造と、抽象化された洋の庭の上にたつモダニズム建築を見事に共存させたのである。木造というドン・キホーテをモダニズムと対等に闘わせるためには、庭という強力な助けが必要であると、堀地は直観していたのである。

サンパウロも、堀口は徹底して庭にこだわった。庭の助けを借りて、ドン・キホーテをコンクリートの暴力からまもろうとしたのである。日本館の敷地が、巨大なユーカリの樹々によって、ニーマイヤーの建築群から隔離されていることを知って、まず堀口は安堵した。ユーカリの庭でニーマイヤーの暴力から隔離し、それだけでは足りずに、水の庭によって、さらに隔離を徹底させた。サンパウロの日本館のデザインの中心は、水の庭である。サンパウロ日本館は桂離宮のコピーだといわれてきたが、僕はその説に従わない。空中に浮いたピロティ状のプロポーションは確かに桂離宮の新御殿に似ているが、新御殿は水には浮いていない。堀口の岡田邸で、和庭と洋庭は水で隔離されている。彼にとっては、水が決定的に重要だったのである。建築のプロポーションは二次的な問題であった。それゆえサンパウロの建築には、建築に対する一種のニヒリズムさえ感じられるのである。水がメインであって、建築は脇役であるとうそぶいているような、ニヒリズムが感じられる。博覧会建築という、一種の祭りのためのイベント建築であることが、ニヒリズム感を一層高めている。

堀口は、幸か不幸かニーマイヤーという圧倒的な強敵と遭遇したことによって、庭による隔離を徹底し、建築に対するニヒリズムがめばえ、ドン・キホーテは行くところまで行った。堀口という方法は、サンパウロという場所と出会うことで新しい境地へと到達した。

そこに僕は偶然以上のものを感じる。ニーマイヤーという方法が、そもそもブラジルという場所、ブラジルという遠い場所を必要とした。ヨーロッパの中にいたら、これほどの自由な造型は不可能だったろう。そしてブラジルという遠く自由な場所だからこそ、木造とコンクリートは、こんな乱暴な形で出会うことになったのである。その出会いの緊張感が、サンパウロ日本館という、きわめてユニークな木造建築を創造したのである。

この堀口の水面が、今は白い防水プラスチックシート敷きの、みたこともない不思議な池と化している。まったく日本的でもなく、庭とさえ呼びたくもない。しかし、池が隔離のために用いられたとするならば、これ以上の切断はないかもしれない。この池は今や和庭でもなく、洋庭でもなく、宙づりにされている。この不気味なほどに白い池こそが、堀口というフライングしたドン・キホーテにはもっともふさわしいように、今となっては思えるのである。

Pavilhão Japonês de São Paulo
Kengo Kuma, arquiteto

Durante o ano de 1954, foi realizada a Exposição do IV Centenário, evento que celebrava os 400 anos de história da cidade de São Paulo. A figura central do projeto foi Oscar Niemeyer (1907-2012), o gênio do modernismo e arquiteto brasileiro já mundialmente renomado. Suas obras podiam ser vistas em 1,800 km2 da área total do Parque Ibirapuera.

Por outro lado, a construção do Pavilhão Japonês ficou ao cargo do arquiteto de estilo japonês Sutemi Horiguchi (1895-1984). De um lado, esculturas de concreto, do outro, delicadas estruturas de madeira, resultando em uma inimaginável combinação. O Pavilhão Japonês, finalizado por Horiguchi, foi uma delicada arquitetura de madeira, característica típica do autor. Pode-se dizer que foi uma das mais delicadas construções já arquitetada pelo autor. A técnica de sustentação por pilares de finas madeiras, aparentemente inspirada pelo Palácio Katsura, alcançou um alto nível de perfeição, e as finas madeiras utilizadas para decorar o interior, estão em sintonia. Uma arquitetura totalmente oposta às formas radicais, livres e maciças utilizadas por Niemeyer em suas obras. Um contraste quase que intencional poderia ser notado.

Certamente Horiguchi havia visto o projeto de Niemeyer. Também sabia quem ele era e conhecia o estilo de suas obras. O que e como Horiguchi pensou ao desenvolver o desenho do Pavilhão Japonês? Por que tamanho contraste foi necessário?

Para essa resposta, é preciso primeiro raciocinar sobre o significado da arquitetura moderna do Japão. A arquitetura moderna no Japão está profundamente ligada a catástrofes. Principalmente o Grande terremoto de Kanto e a Segunda Guerra Mundial. Devido a estas duas tragédias que extinguiram cidades, o Japão deixou de ser um país de “Cidades de madeira” para tornar-se uma “Metrópole de concreto”. Esta mudança foi fixada como objetivo nacional e serviu para prosperar a indústria da construção, além de servir de base do desenvolvimento econômico do Japão no período pós-guerra. A arquitetura moderna que nasceu no início do século XX, na Europa Ocidental, serviu de padrão para as cidades japonesas construídas em ferros e concretos. A história da arquitetura japonesa no século XX pode ser resumida por esse objetivo nacional, o qual tanto o governo quanto as empresas privadas se esforçaram para revestir as cidades de concretos.

Neste contexto, o arquiteto Horiguchi estava em uma situação curiosa, ou seja, ele estava muito à frente de seu tempo. Em 1920 quando Horiguchi estudava arquitetura na Universidade de Tóquio, formou um grupo de 6 colegas chamado “Grupo de Arquitetura Secessionista”. Em julho, realizou a “Primeira Exposição do Grupo de Arquitetura Secessionista do Japão”, na loja de departamentos Shirokiya e lançou o livro” Declaração e Obras do Grupo de Arquitetura Secessionista” pela editora Iwanami Shoten.

Aqui, devemos dar atenção ao ano do lançamento: 1920. O Grande terremoto de Kanto ocorreu três anos depois, em setembro de 1923. O nome do grupo foi inspirado no movimento secessionista de Viena que nasceu no final do século XIX, e foi o primeiro movimento relacionado à arquitetura moderna do Japão. Um estudante da Universidade de Tóquio tornou-se uma estrela, um personagem principal da arquitetura japonesa, da noite para o dia. Obviamente, foi um início muito mais adiante do que o de Kunio Maekawa (1905-1986) ou o de Kenzo Tange (1913-2005), arquitetos que representaram a arquitetura moderna japonesa.

O ponto que merece destaque é o fato de Horiguchi ter se lançado antes mesmo da ocorrência do Grande terremoto de Kanto. Após esta catástrofe, a arquitetura japonesa passou a rejeitar a construção em madeira, iniciando a construção das cidades revestidas de concreto. A introdução da arquitetura moderna ocidental, design de ponta na época, e rejeição à construção em madeira andaram juntas, formando a corrente principal da arquitetura japonesa no século XX. O modernismo e a tragédia combinados ao mesmo tempo definiram, desde então, o rumo da arquitetura japonesa. Não só marcou a rota da arquitetura como também configurou a direção da sociedade. Foi devido a esta tragédia que se tornou possível a construção das cidades em concreto, direcionando o país para uma nação de engenharia civil. Os arquitetos Tange e Maekawa lideraram esta corrente dando início a uma nova era na arquitetura.

Por outro lado, Horiguchi queimou a largada antes mesmo de soar o apito do Grande terremoto de Kanto. Não só declarou o movimento secessionista (1920), como também elaborou e apresentou uma casa de madeira chamada “Shiensou” em 1926. “Shiensou” era uma arquitetura estranha num período pós-terremoto, no qual o modernismo do concreto tinha se tornado a corrente principal. Um telhado pontiagudo feito de palha em uma construção de madeira. Uma casa no estilo campestre, com gosto sóbrio.

Horiguchi foi certamente influenciado pelo design da Escola de Amsterdã que causou um grande impacto na arquitetura europeia entre os anos de 1910 a 1920. A Escola de Amsterdã pode ser classificada como um dos grupos de arquitetura moderna, porém foi oposta a corrente principal que, após 1930, constituiu a base do modernismo. Porém, é foi totalmente contra a “concrete box” (as caixas de concreto). A “concrete box” do modernismo liderada por Le Corbusier e Ludwig Mies van der Rohe foi um design que serviu bem à sociedade industrial, cujo conceito básico consistia na produção e no consumo de massa. Enquanto isso, a Escola de Amsterdã parecia criticar a racionalidade surgida pela sociedade industrial. Assim, podemos afirmar que tanto Horiguchi como a Escola de Amsterdã queimaram a largada. Ou então, saltaram na superfície de terra onde não havia água.

Horiguchi era precoce, sensível e talvez orgulhoso. Por isso queimou a largada e ficou solto no ar. O adimirável é o fato de Horiguchi não ter migrado para a arquitetura de concreto. Ele trabalhou até o final com a arquitetura de madeira, que escolheu na largada queimada. Assim, estudou minuciosamente a arquitetura tradicional japonesa. Horiguchi sabia que sem a tradição, a arquitetura de madeira, considerada ultrapassada, não conseguiria sobreviver na era do concreto. Neste sentido, a vida de Horiguchi pode ter sido trágica ou cômica, mas foi muito bem sábia.

O destino fez com que Horiguchi, o arquiteto solto no ar, projetasse o Pavilhão Japonês dentro da exposição liderada por Oscar Niemeyer, o líder do modernismo em concreto. Existe uma tragédia / comédia maior que esta?

Não é difícil imaginar o tormento de Horiguchi em São Paulo. Como reagir a este paradoxo? Aceitar ou não o trabalho? Horiguchi escreveu: “Não tinha coragem para projetar algo perto daquela obra tão ousada de Niemeyer. (...) Durante 2 semanas fiquei pensando em como recusar o trabalho que não era para mim..”

Mas no final, Horiguchi aceitou o trabalho em São Paulo. Como Dom Quixote, Horiguchi decidiu desafiar Niemeyer com uma “ultrapassada” arquitetura de madeira. O Pavilhão Japonês de São Paulo pode ser considerado o Dom Quixote do século XX. É uma história heroica ao invés de cômica, que alcança o coração das pessoas.

Como Dom Quixote desafiou o concreto? Em muitas ocasiões, o Dom Quixote do século XX escolheu o jardim como sua arma. Horiguchi é conhecido por separar caprichosamente o jardim de estilo japonês com o jardim abstrato do modernismo. Ele protegeu a delicada arquitetura de madeira rodeada de jardim, que serviu de cerca. Sua obra principal chamada Residência de sr. Okada (1933) é uma mistura bem sucedida entre uma casa de estilo japonês e um jardim de modo ocidental e abstrato. Horiguchi, de antemão, sabia que a existência de um jardim é indispensável para que a arquitetura de madeira quixotesca pudesse lidar equitativamente com o modernismo.

Horiguchi projetou minuciosamente o jardim do projeto de São Paulo. Esforçou-se a proteger o Dom Quixote da brutalidade do concreto, usando o jardim como proteção. Horiguchi sentiu-se aliviado quando soube que o Pavilhão Japonês estava separado das demais obras de Niemeyer por árvores de eucalipto. Não bastando o jardim de eucalipto para afastar a energia de Niemeyer, criou ainda um jardim de água, ou seja, uma lagoa para reforçar o isolamento. O destaque do design do Pavilhão Japonês de São Paulo é o jardim de água.

Muitos comentam que o Pavilhão Japonês de São Paulo é uma cópia do Palácio de Katsura, mas eu não concordo. A proporção dos pilares flutuantes pode se parecer com as do Shingoten (Novo Palácio) de Katsura, mas o Shingoten não está sobre a água. Na obra de Residência de sr. Okada, os jardins orientais e ocidentais estão separados pela água. Para Horiguchi, a água é um fator decisivo. A proporção da arquitetura era um problema secundário. Por isso, pode ser notada uma forma de niilismo na obra de São Paulo. O personagem principal é a água, e a arquitetura em si não é mais do que um enfeite. A arquitetura da exposição, como uma espécie de obra para um evento, intensifica o niilismo.

Por bem ou por mal, defrontando um oponente invencível como Niemeyer, Horiguchi trabalhou minuciosamente no isolamento usando o jardim, ajudando Dom Quixote a avançar até onde foi possível. O método de Horiguchi atingiu um ponto elevado graças ao encontro com São Paulo.

É nesta parte que eu sinto muito mais que uma coincidência. O método de Niemeyer evoluiu graças ao Brasil e por ser uma terra distante como o Brasil. Se fosse na Europa, talvez não teria sido possível as criações tão livres. Pelo fato de o Brasil ser uma terra distante e livre, a madeira e o concreto se encontraram de maneira brutal. Foi o encontro de tensão e de nervosismo que criou uma arquitetura de madeira única e especial como o Pavilhão Japonês de São Paulo.

Atualmente a superfície da água projetada por Horiguchi está coberta por um plástico branco à prova d’água, criando um lago muito excêntrico. Sem os traços japoneses, não posso chamá-lo de jardim. Mas se o lago foi criado com a intensão de isolamento, não há outro modo melhor de desconexão. O lago agora não é mais um jardim oriental, nem ocidental. Está flutuando no espaço. Porém, pensando bem, este lago branco e lúgubre pode ser conveniente para Horiguchi, um Dom Quixote que queimou a largada.

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>> 03.12.2015: Resolução conjunta CD/Diretoria para constituição da Comissão de Reforma do Estatuto do Bunkyo
>> 10.09.2015: Reforma parcial do estatuto do Bunkyo
>> 27.05.2015: Conselho Deliberativo institui a Comissão de Reforma do Estatuto do Bunkyo
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