戦争が続いていると信じフィリピン・ルバング島に30年間任務を続けた元陸軍少尉小野田寛郎(おのだ・ひろお)さんが1月16日午後4時29分、肺炎のため都内の病院で亡くなり、91年の人生に幕を閉じられました。
小野田さんは1922年(大正11年)3月19日生まれで、1944年12月、第二次世界大戦の最中フィリピンに派遣されました。1945年8月15日正午の昭和天皇による玉音放送をもってポツダム宣言受諾を国民へ表明し、日本は降伏したのですが、フィリピンのジャングルに潜んでいて戦争はまだ続いていると信じていた小野田さんはその後も持久戦により在比アメリカ軍に挑み続け、島内にあったアメリカ軍レーダーサイトへの襲撃や狙撃、撹乱攻撃を繰り返し、合計百数十回もの戦闘を展開しました。
地元警察との戦闘では2人の部下を失い、最後の数年は密林の中を単独で戦闘を続行していましたが、そんな小野田さんも長年の戦闘と孤独に対して疲労を深めていき、1974年に日本の青年鈴木紀夫氏が現地を訪れ、2月20日に孤独に苛まれていた小野田さんとの接触に成功しました。鈴木氏は日本が敗北した歴史や現代の状況を説明して帰国を促し、小野田さんは受け入れました。
小野田さんはフィリピン軍基地に着くとフィリピン軍司令官に軍刀を渡し、降伏意思を示しました。この時、小野田さんは処刑される覚悟でしたが、フィリピン軍司令官は一旦受け取った軍刀をそのまま彼に返しました。司令官は小野田さんを「軍隊における忠誠の見本」と評したのです。小野田の投降式にはマルコス大統領も出席し、その際彼を「立派な軍人」と評しました。こうして小野田さんにとっての戦争は終わり、1974年3月12日に日本への帰国を果たしました。
今回の小野田さんの死去に際し、ニューヨーク・タイムズ紙は、「戦後の繁栄と物質主義の中で、日本人の多くが喪失していると感じていた誇りを喚起した」「彼の孤独な苦境は、世界の多くの人々にとって意味のないものだったかもしれないが、日本人には義務と忍耐の尊さについて知らしめた」と書き、小野田さんが1974年3月に当時のフィリピンのマルコス大統領に、投降の印として軍刀を手渡した時の光景を、「多くの者にとっては格式のある、古いサムライのようだった」と賞賛しました。
また、ワシントン・ポスト紙も、多くの軍人は「処刑への恐怖」から潜伏生活を続けたが、小野田は任務に忠実であり続けたがゆえに「多くの人々の心を揺さぶった」と論評しました。
帰還後、大きく変貌した日本社会に馴染めなかった小野田さんは、帰国の半年後に次兄のいるブラジルに妻の町枝さんと共に移住して小野田牧場を開設し、84年にはルバング島のジャングルで習得したサバイバルやキャンピング技術を日本の子どもたちに伝えるために小野田自然塾を立ち上げました。
小野田さんが91年の生涯を通して見せた忍耐力、精神力、忠誠心といった特質は、現代の日本人が今一度見直し、培うべき「美しいサムライ精神」ではないだろうか。難しい状況にあっても簡単にあきらめない忍耐力、周りの人間に影響されず自分の生き方を貫き通す精神力、自分が生まれ育った国への誇りや配偶者・友への愛情を生きている限り抱き続ける忠誠心。戦争が終わり、平和な世の中になり、わたしたちを取り巻く環境は良い方向へと大きく変化しましたが、それでも日本人として決して失ってはならないものがある。一人でも多くの人々が小野田寛郎さんの生涯と死の意味を感じ取るなら、今後も美しい日本の魂がこの地球上で見られるかもしれない。そんな“ラストサムライ”のミサが日系団体によって執り行なわれます。みなさん、この機会にラストサムライの生き様に想いをはせ、自分の生き方を見つめ直してみるのはいかがでしょうか。
日程:3月12日(水)午前11時より
場所:サンゴンサーロ教会(1976年に小野田さんと町枝さんとの挙式が行なわれた教会)
共催:文協(ブラジル日本文化福祉協会)
協援(サンパウロ日伯援護協会)
県連(ブラジル日本都道府県人会連合会)
和歌山県人会(小野田さんは和歌山県出身)
日本会議
南米通信社
サンパウロ新聞
ニッケイ新聞